人生

高校生のときからずっと自殺願望を抱えていて、たぶん自分の見た目や能力が劣っていることを自覚したときからなのだけど、それでも死にきれずに生きている。

例えば溺死をするとき、人はもがきながら死ぬと言うけれど、それは死にたくないからもがくのではなく、目の前にある苦痛から逃れようと本能的にもがいていると思っている。足掻いてもがいて生き延びた結果、やっぱり自分は生きたいんじゃないか、と思うのは本当は違くて、苦痛から逃れようとして尚苦痛がつきまとった結果だと思う。どちらの苦痛が大きいかの違いだけで、それは息が出来ない苦しみの方が眼前にあるから抵抗するだけ。生きたいからではないはず。

どっちの苦痛の方が耐え難いかではなくて、どっちも苦痛なことに変わりはない。精神的苦痛も肉体的苦痛もしんどい。

精神的苦痛も、自分の場合は他者との比較によって生まれる。自分が劣っていると自覚するのはいつだって優れた他者がいたから。こうありたいと望む理想像がなければこの世は生き地獄でしかない。頑張った先に人参がなければ走れないのは報酬系がガバガバだからだと考えたこともあるけれど、それは人間の認知機能として当然のことだと知って何となくホッとする。自分だけではない、他人と同じという何となくの安心感があって、それは集団に属する上で避けられない意識だと思う。

でも、全部が全部同じなわけがなくて。どうしても人と違う性質が浮き彫りになる度に、どうしようもない空虚感が生まれてくる。10年くらい前にある人に「誰にも理解されていないと思ってるんじゃない」と指摘されてようやく腑に落ちて、自分を理解してもらえるようになりたいと思っているけれど、どこへ行っても自分を否定されるから、こんな人間になっちゃったんだな。昨日も親に「駄目だね」って言われた。ずっとこんな感じだから、何となく言っているだけなのだろうけれど、自分を肯定する能力があまりに低下してしまった。全部が親のせいではないし、誰かのせいにするつもりもない。駄目な自分のせいだと思っている。でも、その呪いがなければもう少し楽に生きられたかもしれないという可能性を考えてしまう。

何が駄目で、どうしたらいいのかが分からない。でも、模範解答を全部用意されてもきっとウワーーーーッてなってしまうと思う。全部多様性ということで認めてくれないだろうか。ルールやモラルに則っていればそれで良いと思うのに、日頃のコミュニケーションを怠っていれば疎外される。人は一人では生きていけないのは痛感しているのに、上手くやっていけない。今の環境が自分に合っていないだけ、なんて言い訳は通用してくれない。今日の洋服を選ぶように、自分の生き方や置かれている環境も選ばなければならない。他者に委ねても、歩むのは結局自分だ。

そんなだから、他人に任せることをあまり好まないのも当然だと思う。仕事も、人に上手くふることが出来ない。仕事をふられたときも、「言われる前に気付かなくてごめん……」って申し訳なくなってしまうし、相手もそう思うだろうと考えると、何も言わずに自分がやった方が良いだろうとやってしまう。手伝ってくれようとしている相手に「大丈夫」と返してしまうことが多いんだけど、好意を無碍にしてしまっているんだろうな。助け、助けられ。っていうのが難しい。自分は自分のやるべきことをっていう考えだからそこに他者が存在すると予定が噛み合わずにわたわたしてしまう。予定調和が好きなので、イレギュラーは望まない。

 

損な性格をしているとたまに嫌気がさす。人を頼れる人間が羨ましい。けど、何より憧れるのは自由な人間。そういう強さが欲しい。

確固たる自己があれば、他人に揺るぐことはないのに。

自分はすぐ流されてしまう。誰かが良いと思ったものを試したいし、誰かが褒める人を好ましく思う。例えばメディアはそれを利用しているし、流行とかもそうやって作られているのだろう。でも、取り入れた上で温度を、感触を、善悪を、全部自分で判断したい。これはものすごく手間がかかる作業で、だいぶ効率が悪い。取り入れられるものも、能力や金銭的な問題で限度がある。そして諦めてしまう。

 

人生諦めが肝心っていう言葉を思い出す。嫌な言葉だけど、生きていく上で仕方ないことかもしれない。出る杭は打たれて、鳴いた雉も打たれる。程々に諦めて、身の丈に合った生活を。所帯染みた諦念を悲しく思う。もっと人間は自由であって良いはずだと思う。でも、加齢などによってどんどんとエネルギーを奪われて、それでも自分たちは幸せだと思いたいからこそ、この言葉は必要なのだろう。人生諦めが肝心。

 

自分はまだ抗っていたい。

 

 

おわり