許容範囲

自分の中で許せない人種がある。

筋の通っていない奴と楽ばかりしたがる奴。ルールやモラルを理解していない奴は論外。

何となくニコニコして受け流せば良いのだろうけど、どうしても目についてしまう。自分の中で「ん?」と疑問に思ってしまい、一旦溜め込もうとしてももやもやしたり苛々する。

 

人間というのは一貫性のある人が好かれるらしい。安定した態度は付き合いやすいから。情緒不安定だと急に攻撃的になったりして、相手はどう対応すればいいか迷ってしまい、結果としてそれに対応出来る人としか長く続かない。気分の浮き沈みは誰しもあるとして、それをどう対策しようかと考えるのが大人ってことなのだと思う。経験と分析。それによって築かれた自我こそが美しい。

という思考をしているので、自分のことを棚に上げて他人のミスばかりを指摘する人間が嫌いだ。注意する前に自分を改めろ。わたしも改める。

でも、人間はそう変わらない。変わらないからこそ、いい年してみっともない人間になってしまうんだろう。誰も指摘してくれなかったのか、指摘された上でそうなってしまったのかは分からない。生まれついた資質もあるのかもしれない。でも、それは甘えだと思う。欠点があるのなら、それは改善するべきだ。自分の言動は自分の責任でしかない。反省するべきところがあれば反省をし、そうでなければ主張するべき。指摘されると論点を変えて他人を攻撃するような奴は、「お見事!図星です!よく気付きました!」って言っているようなもので、非常に見苦しい。何でなんでしょうね。

 

楽ばかりしようとする奴も、甘えが目について見苦しい。改善しようとしないで、いつまでも学習しない。親切に教えても、他人に任せようとしてばかりする。嫌だからこれをしないっていうのは甘えで、労働をする上で避けられないのだからやるべきだ。嫌なことを引き受けてばかりいると損な役回りになるけれど、その場限りの嫌なことくらいは自分で処理をしなければならない。子供ではないのだから、甘えは通用しない。

自分に厳しく他人に甘くっていうのは難しい。それはある程度の能力や長所があるからこそ見逃せるもので、例えば通路を独占してたむろしている障害物があったら誰だって邪魔だろう。動線を塞ぐものが苦手だ。配慮というものが足りていないと思う。ガードレールや信号は機能や安全に十分配慮されていて便利だが、点字盤を塞ぐ人や物があればそれは配慮が足りていなさすぎて良くない。そんな配慮が、甘えてばかりいる人間には足りていない。それが嫌だ。

 

最低限のルールやモラルはそうやって作られているだろうに、それを踏み躙る奴らが多すぎる。そういったことを考えたこともない人間なんだろうな、と思う。気に留めなければ考えない。何となくでも生きていけるから人生において何の障害にもならない。人を殺せば犯罪だけど、モラルが欠けても罪には問われない。当事者意識がまるで足りていない。

 

自分の中でこれらを自覚したのは最近のことで、今まで自分が怒っている理由も悲しんでいる理由も分かっていなかった。何となく苛々して何となく悲しくなって、幼稚だったと思う。幼稚だからこそ子供部屋オバサンになっているのだろうけれど……。自分の感じ方を少しずつ理解して大事にして、変化したら受け入れていく。これが健全な生き方なんだろう。

 

以上はあくまでも自分の許せないことなので、他の人の許容範囲には含まれているのかもしれないが、そこは人それぞれで、ある程度の予測は出来るけど結局は一人一人と対峙したときにしか分からないものなので、合う人とやっていきたい。

 

今までわたしに傷付けられてしまった人は、ごめんなさい。

 

 

おわり

人生

高校生のときからずっと自殺願望を抱えていて、たぶん自分の見た目や能力が劣っていることを自覚したときからなのだけど、それでも死にきれずに生きている。

例えば溺死をするとき、人はもがきながら死ぬと言うけれど、それは死にたくないからもがくのではなく、目の前にある苦痛から逃れようと本能的にもがいていると思っている。足掻いてもがいて生き延びた結果、やっぱり自分は生きたいんじゃないか、と思うのは本当は違くて、苦痛から逃れようとして尚苦痛がつきまとった結果だと思う。どちらの苦痛が大きいかの違いだけで、それは息が出来ない苦しみの方が眼前にあるから抵抗するだけ。生きたいからではないはず。

どっちの苦痛の方が耐え難いかではなくて、どっちも苦痛なことに変わりはない。精神的苦痛も肉体的苦痛もしんどい。

精神的苦痛も、自分の場合は他者との比較によって生まれる。自分が劣っていると自覚するのはいつだって優れた他者がいたから。こうありたいと望む理想像がなければこの世は生き地獄でしかない。頑張った先に人参がなければ走れないのは報酬系がガバガバだからだと考えたこともあるけれど、それは人間の認知機能として当然のことだと知って何となくホッとする。自分だけではない、他人と同じという何となくの安心感があって、それは集団に属する上で避けられない意識だと思う。

でも、全部が全部同じなわけがなくて。どうしても人と違う性質が浮き彫りになる度に、どうしようもない空虚感が生まれてくる。10年くらい前にある人に「誰にも理解されていないと思ってるんじゃない」と指摘されてようやく腑に落ちて、自分を理解してもらえるようになりたいと思っているけれど、どこへ行っても自分を否定されるから、こんな人間になっちゃったんだな。昨日も親に「駄目だね」って言われた。ずっとこんな感じだから、何となく言っているだけなのだろうけれど、自分を肯定する能力があまりに低下してしまった。全部が親のせいではないし、誰かのせいにするつもりもない。駄目な自分のせいだと思っている。でも、その呪いがなければもう少し楽に生きられたかもしれないという可能性を考えてしまう。

何が駄目で、どうしたらいいのかが分からない。でも、模範解答を全部用意されてもきっとウワーーーーッてなってしまうと思う。全部多様性ということで認めてくれないだろうか。ルールやモラルに則っていればそれで良いと思うのに、日頃のコミュニケーションを怠っていれば疎外される。人は一人では生きていけないのは痛感しているのに、上手くやっていけない。今の環境が自分に合っていないだけ、なんて言い訳は通用してくれない。今日の洋服を選ぶように、自分の生き方や置かれている環境も選ばなければならない。他者に委ねても、歩むのは結局自分だ。

そんなだから、他人に任せることをあまり好まないのも当然だと思う。仕事も、人に上手くふることが出来ない。仕事をふられたときも、「言われる前に気付かなくてごめん……」って申し訳なくなってしまうし、相手もそう思うだろうと考えると、何も言わずに自分がやった方が良いだろうとやってしまう。手伝ってくれようとしている相手に「大丈夫」と返してしまうことが多いんだけど、好意を無碍にしてしまっているんだろうな。助け、助けられ。っていうのが難しい。自分は自分のやるべきことをっていう考えだからそこに他者が存在すると予定が噛み合わずにわたわたしてしまう。予定調和が好きなので、イレギュラーは望まない。

 

損な性格をしているとたまに嫌気がさす。人を頼れる人間が羨ましい。けど、何より憧れるのは自由な人間。そういう強さが欲しい。

確固たる自己があれば、他人に揺るぐことはないのに。

自分はすぐ流されてしまう。誰かが良いと思ったものを試したいし、誰かが褒める人を好ましく思う。例えばメディアはそれを利用しているし、流行とかもそうやって作られているのだろう。でも、取り入れた上で温度を、感触を、善悪を、全部自分で判断したい。これはものすごく手間がかかる作業で、だいぶ効率が悪い。取り入れられるものも、能力や金銭的な問題で限度がある。そして諦めてしまう。

 

人生諦めが肝心っていう言葉を思い出す。嫌な言葉だけど、生きていく上で仕方ないことかもしれない。出る杭は打たれて、鳴いた雉も打たれる。程々に諦めて、身の丈に合った生活を。所帯染みた諦念を悲しく思う。もっと人間は自由であって良いはずだと思う。でも、加齢などによってどんどんとエネルギーを奪われて、それでも自分たちは幸せだと思いたいからこそ、この言葉は必要なのだろう。人生諦めが肝心。

 

自分はまだ抗っていたい。

 

 

おわり

社会

携帯会社のプランでAmazonプライムを無料で利用出来るので、勿体無いから色々とKindle読んでいこうと思い、数冊自己啓発本の類を読んでみた。

 

謙虚に頑張れ。記録をとれ。スケジュール管理出来る奴がデキる奴だ。なるほど、そうなんだな。って思いながら読んでいたんだけど、これらは自分の価値観や能力に当てはまらないことに気付いた。

記録や管理は社会性のある人間が行ったら結果に繋がるんだろうけれど、自分のような社会性のない人間がやろうとするとそもそもの時点でどうしても躓いてしまう。全部完璧に行いたくて、完璧でなくてはやる意味がない。こんなのも続かないなんて自分は駄目だ、能力がないんだ……と悪循環に陥ってしまう。

何事も適当にそつなくこなすのが格好いいと思ってるけれど、これを始めたら頑張りすぎてメンタルやられてまたODするだろうなって感じる。

 

最近は解消されてきてはいるものの、元々生理不順で、生理周期を把握するという習慣がなかったのも管理下手な要因の一つかもしれない。「そろそろ生理始まるんだよね〜」みたいなやりとりが謎だった。今はiPhoneに元々入っているヘルスケアアプリでなんとなく管理出来るようになってきたので楽だなと思う。ルナルナとかも試したことはあるけど続かなかった。簡易的であればあるほど楽なので、自分のようなズボラな人間にとっては有難いことだ。

何でも続かないし、飽き性なことは自覚している。日記も五日と続いた試しがない。映画の半券や美術館のチケットなどは何となくとっているので、それらをスクラップするのがいいんだろうかと悩んでいる。切り貼りくらいなら楽かもしれない。毎日行くわけではないから、どこか出かけた記念に記録に残していくのも今っぽくてお洒落なのかもしれない。もっとも、お洒落な人はSNSとかで更新するのだろうけれど。

 

完璧主義のために完璧でないことは行わなくて、それが結果としてズボラに繋がってしまうのだけど、どうやらそれが内向型の特徴らしい。ビッグファイブ診断でも、自分は多少の外交性はあると思っていたのに内向型と診断されて、なんだか本質は変えられないような気がしてきた。本質というよりかは性質と言うべきで、これは変えようとするのではなくどう向き合っていくか考える方が生産的だと本に書いてあったのだけど、内向型の生き方は難しい。社会の中で生きていくにあたって、擬態出来なければ淘汰されてしまうようだ。擬態出来たとしても、価値観に合う仕事をしなければ、いつかウワーーーーッてなるらしい。遅かれ早かれ自滅する。騙し騙しやっていけるのならそれでもいいと思うけれど、自分には無理そう。現に26歳で発狂している。人生100年時代とか本当にやめてほしい。せめて50年で良いだろ、とか思ってしまう。

長すぎる人生だが、それでも限りのある人生。内向型の人間は、目的意識がないと詰んでしまうらしい。もれなく自分もそうだ。目的もなくだらだらと目の前の仕事を処理するだけの人生なんて考えるだけで気が滅入ってしまう。

 

それでも、自分の人生をよりよく生きたいっていう理想はこんな自分にもあって、今のままだと勿体ない気がしてならない。世界には自分の知らないもっと楽しいことがたくさんあるのではないかと思う。それを知るためにはどうなればいいのかを突き詰めて考えることが自分には必要っぽい。

人が二人以上いれば社会なので、どうしても自分は社会の一部に吸収されてしまうのだろうけど、その中で自分の好きな自分でいられるようにするために、色々と模索したいきます。

 

 

おわり

資格とる

現職で多々ストレスが溜まるので転職を考えているのですが、昨今どこも募集人数が少ないアンド碌に社会経験を積んでこなかったツケが来てだらだらと続けてしまっている。

 

働いているなら誰しもどこかしらでストレスは溜まるものだと理解しているが、我慢しがたい悪に耐えるというのも性に合わないので元気のあるうちは訴え続けていく。

出る杭は打たれるというけれど、出ていかないと何も変わらない日和見主義みたいになるのでそれだけは少し受け入れがたい。

年取って丸くなるのも悪くはないと思う。自分はまだそうならないだけ。

一人でいるうちは自分の過ごしやすい環境だけを求めていけばいいと思う。

 

で、転職を考えるにあたって自分に何のスキルもないことがネックになってきた。

SEでも何か覚えているかと聞かれればすでに記憶がないし、現職はかなり業務内容が限られていて特に磨くスキルもないので、まずは手ごろな資格を取ることから始めようと思う。

普通の一般事務職に就きたいのでMOSとかが良いんだろうか…。

パソコンは毎日使っているのでタイピングは問題ないが、知識がまず足りなさすぎる。

自分は結構頭が悪いので普通の人の倍くらいかかるんだろうな~。

今まで努力という努力をしてこなかったけど、いよいよ頑張ったほうがよさそう。

若さにかこつけて胡坐かけるような年齢ではなくなってくるし頼れる人も特にいないので、一人で頑張る。

 

一人で生きられないような人間が誰かといるべきではないってずっと思っていて、そのためにも一人で生きられるようにまずは自立します。

 

 

おわり

耳鳴り

耳鳴りと目眩がするので、先日耳鼻科を受診し、聴力検査を行なって低音部が聞こえづらいと言われました。

元々の聴力の可能性もあるらしいのですが、今まで健康診断の短い検査しかしてこなかったので真偽は不明。言われてみれば、曲とかのハモリの低音の人の声があまり分からなかったりしていたので元からっぽい?

 

でもまあその検査結果からメニエール病の可能性があるということで、お薬がめちゃくちゃ不味いシロップになりました。これで効かなければメニエール病の疑いは晴れて自律神経の問題だけになる予定。

今日で服用二日目なのですが、まだ耳鳴りはする…。目眩は頻繁にあるわけではないのでまだ様子見で、土曜日にまた受診するまで症状記憶しておく。

 

・イソソルビド CEO←こいつが曲者。シロップみたいな甘さになんともいい難い苦味がついてくる。喫煙で消える不味さ。脳圧や眼圧を下げてメニエール病の症状を抑える薬。

アデホスコーワ顆粒←腸で溶けるらしくかまないようにと言われたが、飲み込んでも口の端にいたりする。錠剤は耳鼻科適応ではないらしいので諦めた。血流をよくするお薬。

メチコバール←錠剤で飲みやすい。B12で抹消循環をよくするお薬。

 

そもそも自律神経失調症メニエール病もストレスが原因っぽくて、結果がどうあれ自分はストレスとうまく付き合う方法を見つけないと根本的な解決にはならないんだろうな。

職場環境がおよその生活の大部分になるので、職場の何かしらが耐えきれないとストレス溜め込む一方。勤務時間外の趣味が必要になってくるんですが、これといった趣味はないのでお終いです。化粧品は好きだけど浪費したくないのでコスメフリークにはなれないし、絵も下手だし文章も何を書きたいかよく分からなくなってきています。

そもそも人間関係が希薄すぎて最近連絡とっている人間が親とTinderの男しかいないのが最高に終わっている。遊びの予定とか立てればいいのだろうけど、腰が重すぎて出かけるまでが億劫。そしてこのコロナ禍。そもそも休みの日は睡眠で終わってしまうので出かける体力はほぼない。死人のように寝ている。体力つければええんか?感謝の突き100本やるか?

 

自分は何がしたいのか一応は考えてはみるんだけど、人間関係和やかな職場でわちゃわちゃ働きつつ、家に帰ると信頼できるパートナーがいるような生活に憧れているわけで、結局人間なんだよなあ。

何をもって好きか、何をもって嫌いかなら簡単に答えられるのに、よく分からない距離にいる人がいる。

パートナーを作るのが一番心の平穏に近いような感じがするのだけど、自分なんかを選ぶようなトンチキはいるのだろうか…

 

 

おわり

ミニマリスト

最近流行ってるようですね、ミニマリスト

物を少なくして洗練された生活をね、憧れる。

 

わたしの家、でかい本棚とでかい学習机があるんですけど、ゆくゆくは片付けていきたいところ。

片付けが苦手というよりも物を買うのが趣味なので、結果物が増えていくだけ。

 

整理してきれいにするのは出来るけど綺麗な状態でい続けることが何故か出来ないんですよね。なんか汚くなっている。

 

土曜日に蔵書の半分くらいの量を宅配サービスで受け取りに来てくれる予定を組んでしまったので、少しスペースが空く予定です。

 

本は売る!

あと洋服もたくさんあるからそれも処分したい!ワンシーズン5枚くらいで着まわしたい。余計な服いらない。どれが本当に使うか分からないから着ない服から捨てていきます。

 

以上

推し

推しについても分析と反省が必要っぽい気がするので。

 

わたしの中での推しは、そのときいる環境の中で一番好感を持てる人間なので、まあ二次元であることが主でそれはオタク故仕方がないし人様にそれほど迷惑をかけることはないのですが、対象が三次元に向いたら厄介なんですね。

 

二次元におけるわたしの好きなキャラクターに対しての愛は、多少親交のある友人なら知っているんですが、まあ歪んでいる。好きなキャラには徹底的に不幸になってほしい。どんな善人でも手を差し伸べないくらいに。或いは誰にも救えないくらいに。

だから「好きな相手と堕落したい」球磨川禊が黒神めだかによってあっっっさりと改心した瞬間には好きだった分本当に失望したし、死ぬまでジョナサン=ジョースターと相入れなかったDIOが好き。

それはたぶん昔から自分が「理解されていない」と思っているので、自分に似たキャラを好きになりがち〜とかそういうアレなんだろうなと思う。あと自分に自信がないので地の底にめり込むくらい落ちてくれないと安心して愛せない。

 

そして、これが三次元に向いたら最後、推しが満ち足りた人間であればあるほどわたしは解釈違いを起こして死ぬ。病気じゃん。

しかも、推しに対してロケット花火のような勢いがあるので、終わるのも早い。まあ早い。エネルギーを補充しつつ推すのではなく、エネルギーを使い切るまで推すスタイル。しかも充電不可。最低な人間じゃんね。飽きたらポイ、みたいな。思えば昔からすぐ全部に飽きちゃって物を大事に出来なかったなあ。だから物を大事にする人好き。

自分の持っていないものを持っている人が好き。って響きはいいけど、つまりそれって全部持ってる人ってことだよね。全部持っててそれなのに満たされていないとかそんなんあるか? 仮にいたとしても、その満たされていない部分がどうして自分で満たせる?

 

多分トイレとかに飾ってある格言のカレンダーか何かで見たような気がするのですが、愛されたいなら愛されるのに相応しい人間になれって言葉、その通りだと思っていて、でも、その言葉によって、自分が愛されないのは相応しい人間じゃないからだ自分は駄目だって自分を責める負のスパイラルにハマりがち。馬鹿すぎる。愛されなくても人は死なないのにね。

 

話題がそれましたが、わたしは超嫉妬深いので、推しが他の誰かと仲良く話すだけで羨ましくなってひとりで拗ねるんですよ。もういい加減この癖やめたい。周囲も「観音坂っていつも陰気臭いよね〜〜キモ〜〜」くらいの温度でいてほしいけどこんなん独りよがりの勝手な願望であって、人様に求めるものではないなと。

 

多分こんな感情間違ってるんですけど、わたしのまだ好きだった頃の球磨川禊の「間違ったままで正しい奴に勝ちたい!」というカッコのとれた台詞を思い返して押し通すか考えています。間違いばっかり。もし近未来に生まれていたら速攻で書き換えられそう。高校生の頃から人生のマニュアル欲しいって言ってるのにまだないんですか。必修科目に人生追加しろ。

 

 

とかまあ色々考えて、結局こんな面倒な感情抱え込むくらいならさっさと手放して解脱したいなと思いました。

空気の綺麗な田舎の川沿いに住んで、お日様が真上に来るくらいのタイミングで目を覚まし、天気が良ければ川沿いを散歩して、いい天気だなって太陽の心地よさを知りたい。すれ違うワンちゃんに「かわいいねー」と癒されたい。善良なお年寄りに優しくしたい。

 

推しなんて作らない方が精神衛生上いいですね。

 

 

以上